

弱きもの・小さきものに寄り添ったイエス・キリスト。「あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」——批評家・随筆家の若松英輔さんが『新約聖書』に収められた四つの「福音書」を読みとく『100分de名著』テキストでは、その言葉の奥にあるものを辿ることで、キリスト教の聖典を人類共通の財産として読み直します。
今回は本書より、イエスの生涯と、『新約聖書』における「福音書」の位置づけについての一節をご紹介します。
悲しむ人は幸いである
四つの福音書とイエスの生涯
「はじめに」でもふれたように、四つの福音書はどれもイエスの生涯を描いている、いわば「イエス伝」です。そうしたことから四つの福音書は、それぞれ「マタイ伝」「マルコ伝」「ルカ伝」「ヨハネ伝」と呼ばれることもありました。この本でも、時折、これらの呼び名を用いていきたいと思います。
四つの福音書は、重なる物語があるとはいえ、その捉え方はさまざまです。たとえば、よく知られているイエスが馬小屋で生まれたという誕生時の場面を詳細に描いているのは、ルカ伝だけなのです。マタイ伝には、わずかにふれる程度の記述しかありませんし、マルコ伝、ヨハネ伝ではイエスの幼年時代はまったく描かれず、成長したイエスが活躍するところから始まっています。
なぜ四つなのか。あるいはなぜ複数の伝記が存在するのか。その理由は明確にはわかりません。しかし、一つの伝承に限定されない開かれた何かを重んじていたことは疑いがありません。
今回は、特定の福音書に限定せず、四つを縒り合わせるように読みながら、イエスの生涯をたどってみたいと考えています。
書店に行くと幾つもの異なる『聖書』の翻訳があります(『聖書』とは『旧約聖書』と『新約聖書』を合わせた書物の呼び名です)。最初はどの翻訳がよいのか迷うかもしれません。私は、どれでもその人に合うものを選べばよいと思っています。この本では、私が長く読み、親しんできた訳本を使います。
もう一つ、『新約聖書』と『旧約聖書』の関係についても、初めにお話ししておきたいと思います。「福音書」を読み進めると、『旧約聖書』の内容に深く関係する言葉がたびたび出てくるからです。
『新約聖書』とは、よく知られているとおりキリスト教の聖典です。一方、『旧約聖書』はユダヤ教の聖典だと説明されることがありますが、それだけでは十分とはいえません。『旧約聖書』は、キリスト教の聖典でもあるからです。
キリスト教の世界観においては、『旧約聖書』に書かれている内容はイエスの到来によって完成したと考えられています。つまり、『新約聖書』で描かれる「イエスの到来」に向けて、神がどのような準備をしていたのかということを教えてくれるのが『旧約聖書』だという考え方なのです。
『旧約聖書』に登場するさまざまな戒律も、かつては大きな意味をもったが、イエスが到来し、役割を終えたと考えられています。たとえばユダヤ教徒には戒律で食べてはならないものが複数ありますが、マルコ伝に「イエスは、食べ物はすべて清いものであると宣言された」(7・19)と記されているように、すべての宗派においてではありませんが、キリスト教では基本的にそうした戒律はありません。
では、その「イエスの到来」の意味を描いた『新約聖書』、特に「福音書」を、どう読んでいけばいいのか。その重要な道しるべとなる言葉が、四つの福音書の最後に書かれているのです。
イエスの行われたことは、このほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界さえも、その書かれた書物を収めきれないであろうと、わたしは思う。
(「ヨハネによる福音書」 21 ・ 25 )
「福音書」に記されているのは、イエスの行ったことのごく一部、イエスの生涯の一断片に過ぎないというのです。イエスが偉大な存在だからその生涯のすべてを語り得ない、というのではありません。イエスは、神の子であると同時に、人の子でもあります。誰の生涯であっても、語り得ない部分が多く、語り得ることはわずかなのではないでしょうか。先の一節はこの厳粛な事実を明らかにしてくれているのです。
イエスをあまり遠くの存在にしてはいけません。イエスの生涯を通じて私たちの人生観そのものを見直すことが重要だと思うのです。こうしたことを常に念頭に置きながら、読み進めていきたいと思います。
イエスの誕生──「聖家族」を見つけたのは誰か
それでは、いよいよイエスの生涯を誕生から読み解いてみたいと思います。まずはルカ伝に記されている、羊飼いたちにイエスの誕生が告げ知らされる場面です。
さて、その地方では、羊飼いたちが野宿をして、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の使いが羊飼いたちのそばに立ち、主の栄光が彼らの周りを照らし出したので、彼らはひどく恐れた。み使いは言った、「恐れることはない。わたしは、民全体に及ぶ、大きな喜びの訪れを、あなた方に告げる。今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなた方は、産着にくるまれて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう。これが徴である」。すると突然、み使いに天の大軍が加わり、神を賛美した。
「いと高き天には、神に栄光、
地には、み心にかなう人々に平和」。
(「ルカによる福音書」2・8─ 14 )
「今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった」。このことが、まさに「はじめに」でふれた「福音」、つまり「よろこびの知らせ」なのです。
「み使い」という言葉が出てきましたが、これは天使、天の使いのことです。「福音書」に決まった読み方などないのですが、ある特定の言葉に注意しながら読むという方法は、一つの選択肢としてあるように思います。この章では「天使」「夢」「幸い」「悲しみ」といった言葉に注目してみたいと思います。言葉は扉です。それを開けるとそれまでとは異なる地平が開けてくることがあるのです。
「天使」は、神の言葉/コトバを運ぶもの、人間と神との間をつないでくれる存在です。羊飼いたちはイエスの誕生を、神の声で直接聞いたのではなく、神の思いを天使によって告げられて知ったということになります。天使は人間にとって神のコトバの通訳なのです。
人間と神が直接つながり、対話するのではなく、なぜ天使という仲介者が必要なのか。それは、もっとも大切なことは人間の言葉を超えた神のコトバによって私たちに告げられるということが暗示されているのだと思います。
先の一節のあとには次の一節が続きます。
み使いたちが離れて天に去ると、羊飼いたちは語り合った、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう」。そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあてた。
(「ルカによる福音書」2・ 15 ─ 16 )
「寝ている乳飲み子(=イエス)」とその両親であるマリアとヨセフ、この「聖家族」を最初に見つけたのは羊飼いたちでした。
羊飼いたちは、世の中で大きな権力をもっているわけでも、多くの知識を有しているわけでもありません。ただ、仕事を愛し、毎日を懸命に、動物たちとともに生きている人たちです。先の場面が暗示しているのは、重要なことを神から託されるのは、いわゆる権力者ではなく、民衆のほうであるということなのでしょう。
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若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家
著書に『詩集 見えない涙』(亜紀書房)、『小林秀雄── 美しい花』(文藝春秋)、『悲しみの秘義』(文春文庫)、『種まく人』『詩集美しいとき』(亜紀書房)、『学びのきほん はじめての利他学』『14歳の教室── どう読みどう生きるか』(NHK出版)などがある。
◆「NHK100分de名著 『新約聖書 福音書』2023年4月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『新約聖書 福音書』からの引用は、『新約聖書 原文校訂による口語訳』(フランシスコ会聖書研究所訳注、サンパウロ)に拠ります。引用箇所には、福音書名とその章・節を記しています。例えば、(「ルカによる福音書」2・8-14)は「ルカによる福音書」の2章8節から14節の引用であることを表します。