
クーデターやテロ攻撃、戦争、また大規模な自然災害などが起きた時、それに乗じて私たちの富と民主主義を虎視眈々と狙うものがいます。
ジャーナリストのナオミ・クラインは、「政府や多国籍企業、国際機関などにとって、大惨事(ショック)は民衆を思いのままに支配する政策(ドクトリン)を実行に移す、絶好のチャンスである」と言います。
その構造を明らかにした書『ショック・ドクトリン』を、国際ジャーナリスト・堤未果さんが読み解く『100分de名著』テキスト。今回は、堤さんによる本書へのイントロダクションを紹介します。

今こそ日本人が知るべき、
「衝撃と恐怖」のメカニズム
二〇〇一年九月十一日。
世界を永遠に変えたと言われる、アメリカ同時多発テロ事件を覚えていますか?
当時私は、テロのあった世界貿易センタービルの隣に立つビルの二〇階にある証券会社で働いていました。炎が吹き出す窓から人が飛び降りる様子や、泣きながら逃げ惑う人々、轟音と共に崩壊する二棟のビルなどが、今もまだ、目に焼きついています。
けれど、私が本当に恐ろしかったのは、テロそのものではありません。
あの惨事を境に、アメリカという国が、極めてラディカルに、スピーディーに、根底から変えられていったことでした。
国連決議なしに、アフガニスタンやイラクに問答無用で軍事侵攻し、通常なら猛反対が起こるような、国内監視を合法化する法律が即座に成立し、あっという間に国中に監視カメラが取り付けられます。テレビもラジオも新聞も、連日横並びでテロの脅威と愛国心を煽り、専門家と呼ばれる人がテロリストの残忍さを警告する度に、銃の売り上げが右肩上がりで上昇していきました。
一番ショックだったのは、こうした政府のやり方や、「テロとの戦争」への疑問や批判を口に出す人たちの言論が、次々に抑えこまれていったことです。
ある日突然キャスターが降板させられ、憲法学の大学教授が解雇され、人気ブロガーのブログはネットから丸ごと削除されてしまう。市民活動家たちがデモの場所に行くとすでに警察が待っていてその場で逮捕されるケースが相次ぐ一方で、そうしたニュースが報じられる中、署名用紙やアンケートに、名前や住所を書くことを躊躇する人が増えていきました。教育や医療、福祉や公共サービスへの予算が大幅に減らされる一方で、巨額の戦争関連予算は繰り返し承認され、湯水のように使われます。政府やメディアの出す情報は戦争支持に偏ったものばかりで、実際に何が起きているかが見えません。
昨日までこうだったことが今日は一八〇度変わってしまう。そんな、独裁国家でしか起こらないはずのことが目の前で起きていることに、それまで味わったことのないショックと失望、無力感を感じ、テロによるPTSD(心的外傷後ストレス障害)も重なって、私は精神的に参ってしまいました。
強烈な違和感は、会社を辞めて帰国した後も、消えるどころか日に日に大きくなる一方でした。生活のために細々と通訳の仕事をしていたものの、何を信じたらいいかわからず、未来が全く見えなくなっていたのです。
そんな時、アメリカのアフガニスタン侵攻に刑事裁判形式で抗議する「アフガニスタン国際戦犯民衆法廷」を傍聴したり、戦時下のイラクから来日した医師たちの講演の通訳をしたりする機会がありました。その際に聞いたイラク社会の現状が、西側メディアで伝えられているものとは全く違うと知った時の衝撃は、言葉では言い表せません。
裏切られたような気持ちと共に、9・11以来ずっと、心の中でくすぶっていた違和感が弾け、私は再びアメリカに戻る決意をしたのです。
テレビの世界にいた父親と同じ仕事は絶対選ばないという宣言を翻し、私を国際ジャーナリストにしたのは、この「真実を知りたい」という切望感でした。
アメリカに戻り、9・11の爪痕を辿るように異なる分野の人々から、直接話を聞くにつれ、政府やメディアが差し出す情報と現実で起きていることのギャップが、明らかになっていきました。その内容をまとめ、二〇〇八年一月に上梓したのが、『ルポ 貧困大国アメリカ』です。9・11後、明らかに新自由主義が暴走し、コモン(共有財産)であるはずの公共サービスが次々に商品化され、医療、教育、福祉、戦争までが民営化されたアメリカの格差社会について取材したものでした。
刊行した本を送ったニューヨーク在住の友人から連絡があり、その時勧められたのが、二〇〇七年に米国で刊行されたナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の原書なのです。
最初にこの本を読んだ時の衝撃は、今も忘れられません。そこに書かれていたのは、まさに9・11で私が体験し、疑問を感じ、強めてきた違和感の正体に気づかせるヒントの数々でした。
歴史的事実を丹念に拾い上げながら、その点と点をつなげることではっきり見えてくる一つのパターン。しかもそれが「ショック・ドクトリン」という名で、「衝撃と恐怖」を利用した一つのメカニズムとして説明されていたのです。

『ショック・ドクトリン』原著ペーパーバック版。初版は2007年刊
夢中でページを捲りながら、まるで霧が晴れるように、今まで見聞きしてきたことが腑に落ちていきました。
9・11後のアメリカで私が目の当たりにしたものが、過去半世紀の間に世界の他の地域でも使われてきた、一つの手法であったこと。
読み終わった時、私はしばらく呆然としたまま、言葉が出ませんでした。
歴史家のE・H・カーが言ったように、事実とは、歴史家が呼びかけた時にだけ語るもの。誰がどの角度から見るかによって、歴史はいかようにもその解釈を変えられるのです。
この本の日本語訳が刊行されたのは、巨大な地震と津波が日本を襲い、史上最悪の原発事故が社会全体をショック状態に突き落とした東日本大震災の半年後でした。
版元の岩波書店から帯文を依頼された私は、迷わずこう書きました。
「3・11以後の日本は確実に次の標的になる」
『ショック・ドクトリン』の原書が、世に出てから一六年。この間、世界ではデジタル・テクノロジーが猛スピードで進化し、私たちの日常はますます仮想空間と一体化し、ショック・ドクトリンの手法もまた、よりスピードを上げ、見えにくく、巧妙になってきています。
主権者として社会を作っていくはずの私たちが、このスピードに引きずられ、大量の情報に飲まれたままでいれば、立ち止まる暇もなくつけこまれ、弱い者がまず踏みつけにされるでしょう。そんな社会を子どもたちに残したくないからこそ、この本を一人でも多くの日本人に読んでもらいたい……そう強く思っていたところに今回の「100分de名著」のお話を頂いたことに、不思議な運命の力を感じました。
現実の中で起こった事象を点として見るのではなく、点と点をつないで線にする。そして視野を世界全体に広げることで、その線を面に広げる。
そこに時間軸の歴史的視点を入れて立体的に見た時に、初めて浮かび上がってくるものは、私たちを立ち止まらせ、深く考えさせ、人間として確かにしてくれます。
ただし一つ警告しておくと、ナオミ・クラインの本の一つの特徴は、非常に詳細な事実が書き込まれているために、かなりのボリュームがあり、情報量も膨大なことです。そのため、教科書を読むような読み方をすると、途中で嫌になって挫折してしまうかもしれません。コツは、細かなディテールを記憶しようとしないこと。ある出来事について気になった時は、それが別の時代に別の国でも起きていることを理解して、一つの大きなパターンを捉えるようにしてみてください。現象を、時間・空間の縦軸と横軸を通して見ることで“ビッグピクチャー”が見えてきて、理解できるからです。歴史の本、ジャーナリズムの本、としてではなく、「思考のトレーニング」をするつもりで読むことをお勧めします。
起きていることを多角的に、俯瞰して見るスキルを身につけると、目に映る世界が本当に変わります。少ない情報でも、未来が見えるようになると、主権者としての自分の立ち位置がクリアになっていくのを実感できるでしょう。
新型コロナウイルスによるパンデミックやウクライナ危機、気候変動や食糧危機など、今や世界中が、同時多発惨事に放り込まれていると言っても過言ではありません。そこで今仕掛けられている全世界規模の「ショック・ドクトリン」とは何か。その中で日本はどんな未来を目指すのか。ぜひ私たちが現在その渦中にあるということを意識しながら、この本を読んでみてください。歴史とは現在と過去との対話だと言われますが、過去を見る新しい眼が今ほど切実に求められた時代があるでしょうか。それを紐解き向き合うことで、再び自分を取り戻した私にとっても、これからこの名著を読む皆さんにとっても、きっとその対話は、次世代に手渡せる素晴らしい財産になるはずです。
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堤 未果(つつみ・みか)
国際ジャーナリスト
米国の政治、経済、医療、福祉、教育、エネルギー、農政など、徹底した現場取材と公文書分析による調査報道を続け、テレビ、ラジオ、他各種メディアで発言。2006年『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』(海鳴社)で黒田清・日本ジャーナリスト会議新人賞。『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)で、2008年に日本エッセイストクラブ賞、2009年に新書大賞。著書に『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書)、『日本が売られる』(幻冬舎新書)、『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)、『ルポ 食が壊れる』(文春新書)他多数。WEB番組「月刊アンダーワールド」キャスター。
◆「NHK100分de名著 ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』2023年6月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『ショック・ドクトリン』からの引用は岩波書店版(上・下巻、幾島幸子・村上由見子訳、2011)に拠ります。