
ビル・ゲイツが「人々がスター・ウォーズの新作を待ち望むように、私は著者シュミルの新作を待つ」と言明する、現代の“知の巨人”バーツラフ・シュミル。 『Numbers Don't Lie 世界のリアルは「数字」でつかめ!』(NHK出版)では71のトピックについてデータやグラフに着目して世界を正しく理解する方法を説いた著者が、わたしたちの日々の暮らしを無意識のうちに規定する「サイズ」という観点からさまざまな現象を考える新感覚の教養書が本作『SIZE(サイズ) 世界の真実は「大きさ」でわかる』です。ここでは発売を記念して、第2章「錯覚はなぜ起こるのか」冒頭部分の試し読みを公開します(web用に一部編集しています)。
錯覚はなぜ起こるのか
寸法をつかむには、まず、その物体を知覚しなければならない。見たり触ったりした感じを当てにすることが多く、音や匂いの力を借りることもある。たとえば、サイズをつかむのに音を利用する方法は、子どもの遊びとしても楽しめる。ためしに、暗く大きな洞窟の奥に向かって叫び、反響音が聞こえてくるまでの秒数を数えてみよう。音速は秒速約340メートルなので、その半分の170メートルに秒数を掛ければ、だいたいの奥行がわかる。また嗅覚(伝書鳩の帰巣の際にも関係している感覚)を手がかりに、室内での位置関係を確認できることが、2015年、慎重に計画された実験により判明した。嗅覚、視覚、聴覚の3種類の刺激のうち、1種類しかない状態を設定し、室内でターゲットの人をさがしてもらったところ、被験者は匂いだけを頼りにできた場合に、もっとも正確にさがしあてたのである。
かたや、「見る」という行為は、大きさを見積もる際にもっともよく利用する方法だが、けっして簡単なプロセスではない。私たちの五感は体内に組み込まれているため、世界をどう知覚するかは、必然的に当人の身体の状態によって変わってくる。つまり頭や胴体がどんな位置にあり、どちらの方向を向いているかで、見える範囲や方向が決まり、限界が生じるのだ。この現象は絶えず生じていて、当人は自覚していない。アメリカの地理学者イーフー・トゥアンはこう述べている。「人間は、たんに存在するというだけで、ある枠組みを空間に設定することになるのであるが、ほとんどいつもその枠組みに気づいていない……人間は尺度である。人間の身体は文字どおりの意味で方向、位置、距離の尺度なのである……空間の前置詞は、必然的に人間中心の語であらざるをえない」〔『空間の経験』山本浩訳、筑摩書房〕。つまり、自分が存在するという本質的な証拠は、思うように自分の身体を動かし、自分は存在するという感覚を持続して認識する能力から得られるのだ。
これは自明の理ではあるものの、深淵な意味をもっている。スウィフトの小説でガリバーが体験した旅は、大きくなったり小さくなったりする身体をテーマに構成されている(『ガリバー旅行記』については第5章でも触れる)。空想の世界の主人公、冒険好きなイギリス人ガリバーにとっては普通のサイズの物が、シマリスほどの大きさしかないリリパット人からすると、怪物のように巨大に見える。その次に訪れた国では正反対の状況が展開する。ブロブディンナグ国の人々は、ガリバーにしてみればおそろしいまでに巨大で、とてつもなく不快に見える―とくにご婦人がたの顔にある巨大なしみ、吹き出物、そばかすなどに、ガリバーは辟易へきえきするのだ。
私たちの身体の大きさと五感の質は、人間、動物、物体、景色のサイズをどのように知覚するか――無意識のうちに、もしくは意識して――絶えず決定している。つまり、自分が目にしたものすべてについて、直感的に把握している幅広い(現代テクノロジーのおかげで観測可能になった)範囲のどこかに位置付け、それをどう(自分の標準と照らしあわせて)評価するか、どう受けとるか(大切にするか、軽視するか)を決定しているのだ。たとえば、初めて会った女性の顔を見たときに「この人の前歯の長さを見積もって、笑顔の魅力を評価しよう」とは思わない。私たちは無意識のうちに、瞬時に見定めているのだ。
人間は驚くほどすばやく判断をくだしている。その人物の魅力、好ましさ、信頼度、能力、攻撃性などを瞬時に判断するのだ。そして実際、数々の研究がこの現象を調べてきた結果、たった0.1秒、相手に接しただけでくだした判断が、時間の制約がまったくない状態でくだした判断と強い相関を示すことがわかった。より長く相手と接すればもっと強い確信をもって判断をくだすが、すばやくくだした判断と時間をかけた判断で相関の程度が大きく変わるわけではない。比較のために補足すると、0.1秒という時間は、落下してくる物体を受けとめるという単純な行動を起こす際に必要な時間よりも短い。そして、誰かの顔を見ると、あなたは顔の構成要素を即座に評価する。その人物の前歯の長さを、脳に蓄積されたデータと比較して、自分のなかの「標準」より1ミリメートルでも短ければ、その笑顔はあまり魅力的ではないと判断するかもしれない。
同様に、空港で搭乗を待っているときに、目の前に立っている男性の肥満度を当てようと、わざわざBMI(ボディマス指数。体重[キログラム]を身長[メートル]の2乗で割る)を計算しようとは思わないだろう。ただ、男性の姿を一瞬見ただけで、だいぶ太っていると思えば、肥満(BMIが30以上)に分類するのだ〔世界保健機関(WHO)はBMI30以上を肥満としているが、日本肥満学会は25以上を肥満としている〕。それに、アメリカのレストランで提供される一人前の肉やパスタの重さをいちいち量らなくても、イタリアで提供される同様の料理よりはるかに量が多いことはわかる。日本のビジネスホテルの部屋に入ったとき、わざわざ縦と横の長さを測定しなくても、アメリカのチェーンホテルの部屋よりだいぶ狭いことがわかるのと同じだ。
そもそも、私たち人間の身体には物理的な制約があり、大きくなったり小さくなったりする限界はしっかりと身体に刻み込まれている。よって必然的に使用するさまざまな物のサイズも限定されることになる―道具は人の手で扱いやすいサイズにする必要があるし、椅子は臀部でんぶにフィットしなければならない。そのため、そうした日用品のサイズはごく狭い範囲でしか変えられず、新しいデザインが登場するのはもっぱら美的感覚にすぐれている場合か、新素材を利用する場合で、その代表例がメガネだ。メガネ使用者は大勢いるが(視力を補う必要があるのは成人の約3分の2)、そのデザインは瞳孔間の距離によって幅に制限が生じる。また、狭い住宅やオフィス、工具や文房具(ドライバーから鉛筆まで)の寸法は、人の手の大きさや形によって制限を受ける。それにナイフやフォークのサイズは、私たちの口(より正確にいえば口腔)のサイズで上限ができる。家具の寸法も同様で、椅子の幅やソファーの高さも、快適な標準サイズより大きくしたところでメリットはない。
これらすべてが意味するのは、私たちが自分の身体と比較して相対的に万物のサイズを知覚しているということだ。その際、私たちは、これまで目にしてきた自然環境やデザインされた人工物の記憶を参考にする。その結果、想定外のサイズに遭遇したときのまれな経験が、強く印象に残るのだ。