身の回りに散りばめられた学びをつかまえる、フォトグラファー・安彦幸枝さんによる写真とエッセイ。  
 久しぶりにピアノを再開した。友人宅で弾かせてもらったことがきっかけだった。友人は子供の稽古用に中古のアップライトピアノを4万円で手に入れたものの、二階からの搬入に15万円かかったと言う。指を忘れないために練習したい自分にはエントリーモデルの電子ピアノで十分だ。探してみると、現代の住環境に合わせたコンパクトなものがたくさんある。メンテナンス済みの型落ち品を手頃な値段で購入した。
 
 
 
 以前に習った曲はところどころ忘れてしまっていたが、音符にルビをふり、YouTubeで指の運びを繰り返し見ながら弾くうちに少しずつ思い出した。友人らと話すと、結構な人数のピアノ経験者がいる。同じく先生と合わなくてやめた人もいれば、成人まで続けて年に一度の発表会が楽しみだったという人もいる。たまに行くビストロの店主が学生時代にピアノ留学していたと聞いて驚いた。そういえば、その店の客にはミュージシャンが多い。

 二、三日弾かないともう指がもつれる。毎日必ず30分間、などと決めると億劫になるので、ピアノの前を通りかかったとき、家事の合間や仕事へ行く前の5分間でも触るようにしている。88鍵の低音から高音を体ごと移動するために、ピアノの椅子は横に幅広い。弾き始めると椅子の空いている左側のスペースに、決まって猫が座る。猫はぼんやり隣にいるだけだが、よし、今日も猫先生が見てくれているから、さぼらずに練習しようと思う。
 
 
昨日、弾いてなくない?  
 先月、撮影で浜松へ行く機会があった。ヤマハと河合楽器とローランドの本社工場があるため、駅にはいわゆるフリーピアノが、それもグランドピアノが設置してある。帰り道はひと気の少ない時間帯だったので、そっと弾かせてもらった。思っていたよりも大きく響いて驚く。

 音は遠くまで広がって、同時に自分の体の中だけで鳴っているようにも感じられる。弦楽器の音色にうっとりしながら弾き終えると係の人と目が合って、マスク越しにニッコリと笑い合った。
 
 
 
 
安彦幸枝(あびこ・さちえ)|父のデザイン事務所でアシスタントを務めた後、写真家泊昭雄氏に師事。著書に『庭猫スンスンと家猫くまの日日』(小学館)、『どこへ行っても犬と猫』(KADOKAWA)ほか。NHK出版では『NHK趣味どきっ!』テキストなどで撮影多数。 ◆写真と文:安彦幸枝
◆編集:佐藤信輔
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