トルストイによる『人は何で生きるか』。この作品は私たちに、「世界」というものは、目に映る外の世界と、目に見えない内なる世界との、いわば二重構造になっていることを教えてくれます。

 NHKテキスト「100分de名著 forティーンズ」から、批評家・随筆家の若松英輔さんによるトルストイ『人は何で生きるか』の読み解きを抜粋掲載します。
愛を分かち合う人生 非戦論者の小さな代表作  今回は、一九世紀ロシアの作家レフ・トルストイ(一八二九〜一九一〇)の小さな代表作『人は何で生きるか』を皆さんと一緒に読んでいきたいと思います。

 トルストイは、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』といった重厚な長編作品で知られていますが、その一方で、子どもから大人まで、多くの人に開かれた「民話」の創作にも力を入れていました。ここでいう「民話」とは昔話のことではありません。トルストイが広く民衆のために書いたお話のことです。

『人は何で生きるか』は、今から一四〇年ほど前、トルストイが五三歳のときに書いた最初の民話です。

 この物語は、生きるうえで、かけがえがないものは何か、ということについて、たくさんの気づきを与えてくれます。

 しかし、一つ注意が必要です。物語に引き込まれて、話の筋を外の世界の出来事としてだけ追ってしまうと、大切なことが見過ごされる可能性があります。

 なぜなら、大切なものは、私たちの内なる世界にもあるからです。この作品は私たちに、「世界」というものは、目に映る外の世界と、目に見えない内なる世界との、いわば二重構造になっていることを教えてくれます。

 外の世界と内なる世界をつなぐ扉の鍵を握っているのが、ミハイルという名の不思議な男です。ミハイルは、かつてロシアにいた男であるだけでなく、二一世紀に生きている自分の中にもいる。そう感じることができれば、物語はいっそう身近に感じられるようになってくると思います。

 生きていくうえで、かけがえがないものを探そうとするとき、何ものかが、内なる世界を見よと私たちを強く促します。

 たとえば、二〇二二年の春、ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が起きました。それを政治的な、社会的な問題として深く考えることが重要であることは言うまでもありません。しかし、同時に私たちの内面にある欲や悪といった問題からも目を背けることはできません。

 トルストイはロシア人です。当然のことですが、すべてのロシア人が好戦的なわけではありません。トルストイは絶対的非戦論者でした。どんな理由があろうとも、戦争は絶対に許されない、それが彼の信条でした。

「非戦」と「反戦」は違います。「反戦」は、目の前の戦争に反対することですが、「非戦」は、戦争そのものを否定し、それが無くなることを強く求めることです。

 今回は、この作品を翻訳家・北御門二郎(きたみかどじろう)の訳で読んでいこうと思います。北御門は、トルストイの思想に深く傾倒、共鳴し、その作品の多くを翻訳しただけでなく、自らも非戦、非暴力主義を貫いた人物です。彼が初めてトルストイ作品と出会ったのは、一七歳のときでした。友人の本棚から何気なく手に取ったのが、この『人は何で生きるか』だったのです。北御門はトルストイの民話にふれ、親しみやすい平易さの中に深い真理をたたえた「全人類にとっての最高の教科書」だと述べています。

 さて、物語を読んでいく前に、この作品の冒頭に置かれた言葉(エピグラフ)に注目してみたいと思います。そこには『新約聖書』の『ヨハネの第一の手紙』にある言葉が六つ引かれています。

 たとえばその一つに、「わたしたちは、死から命へ移ったことを知っています。なぜなら、兄弟を愛しているからです。愛さない人は、死のうちに留(とど)まっています」(第三章一四節)という一節があります。愛は生と死のあいだにある壁を貫いてはたらく、というのです。このことが本当にわかれば、私たちの人生のありようも一変するのではないでしょうか。死は永遠の別れではなく、愛によって、別なかたちでつながる機会になるからです。

 エピグラフは文字も小さく、読み過ごしてしまいがちです。しかし、どれか一つでもよいので、自分に合うもの、気になった言葉があったら心に留めておいてください。その言葉は、『人は何で生きるか』という「森」を旅するときの道を照らす光になってくれると思います。

テキスト立ち読み! 若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家

一九六八年、新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。二〇〇七年「越知保夫とその時代——求道の文学」にて第一四回三田文学新人賞評論部門当選、二〇一六年『叡知の詩学││小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第二回西脇順三郎学術賞受賞、二〇一八年『詩集見えない涙』(亜紀書房)にて第三三回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄——美しい花』(文藝春秋)にて第一六回角川財団学芸賞、二〇一九年第一六回蓮如賞受賞。その他の著書に『悲しみの秘義』(文春文庫)、『種まく人』『詩集美しいとき』(亜紀書房)、『学びのきほん はじめての利他学』『学びのきほん考える教室——大人のための哲学入門』『14歳の教室——どう読みどう生きるか』(NHK出版)など。
◆「NHK100分de名著 forティーンズ 2022年8月」より
◆※本書における引用は、『人は何で生きるか』北御門二郎訳、あすなろ書房/『WHATIS LIFE? 生命とは何か』竹内薫訳、ダイヤモンド社/『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』関美和訳、ダイヤモンド社/『竹取物語』角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックスによるものです。
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