創刊10周年を迎えた「100分de名著ブックス」シリーズは、累計50万部を突破しました。「さらに多くの方に名著の魅力に触れてほしい!」との思いから、毎週月曜日、既刊の名著読み解きを1章まるごと公開します! 今回の名著はニーチェの「ツァラトゥストラ」。「100分de名著ブックス ニーチェ『ツァラトゥストラ』」の「はじめに」と「第1章」より、西 研先生による読み解きをご紹介します(第7回/全7回)

第1回はこちら/第2回はこちら/第3回はこちら/第4回はこちら/第5回はこちら/第6回はこちら
第1章 ルサンチマンを克服せよ  (その6) ルサンチマンがキリスト教を生んだ  ニーチェはさらに、ルサンチマンこそがキリスト教──すなわちヨーロッパの文化のすべての基礎となっている「神」──を生み出したと考えています。しかしこのルサンチマンから生まれた文化は、なんら創造性を持たない。ルサンチマン批判は、ヨーロッパの文化総体の批判へとつながり、さらにこれまでの価値を根底的に転換せねばならぬという「価値転換」の主張へとつながっていくのです。

 『ツァラトゥストラ』第一部「背後世界を説く者」という節にも、このような文章があります。「悩みと不可能──それがあらゆる背後世界(あの世)をつくったのだ。そして、ひどく苦悩する者だけが経験するあのつかのまの幸福の妄想が背後世界(あの世=天国)をつくったのだ」と。神様とか天国といったものは、人間が苦悩に耐え切れず苦悩を逃れるためにつくり出したものだというのです。

 このキリスト教の神がどうやって生まれたか、という点については、『道徳の系譜学』で詳しく述べられていますので、ここではそれを紹介しておきましょう。『系譜学』の第一論文は「善と悪、よいとわるい」と題されていますが、一言でいうと「神は弱者のルサンチマン──うらみ・ねたみ・そねみから生まれた」と主張するものです。

 まずキリスト教が生まれた当時、ユダヤ人たちはローマの支配下にあって苦しんでいました。ユダヤ人たちにも王はいましたが、王はむしろローマと結託している。だから一般民衆は、王様に対してもローマ人に対しても鬱屈(うつくつ)するものを持っていました。しかし反抗することもできず無力にあえいでいる。現実に強者となることなど不可能です。そこで用いたのが「神」でした。ユダヤ人は神を用いることで「観念」のなかで強者になろうとしたのです。ニーチェは「道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的になり、価値を生み出すようになったときにはじめて起こる」といっています。
 
 ニーチェはまず、「貴族的価値評価法」と「僧侶的価値評価法」という二種類の価値判断の仕方があることを主張しています。「貴族的」のほうが「よい/わるい」、「僧侶的」のほうが「善/悪」と表記されます。
 「貴族的価値評価法」から説明しましょう。これは自分の力が自発的に発揮されるときに感じる自己肯定のことです。たとえばサッカーをする人が「今日のオレの動きは只者じゃないぞ。ひょっとしてオレって天才か?」と思ったり、音楽をつくる人が「今日は溢れるようにメロディがわいてくるぞ」と感じたりするときのように、自分から力を発散することによって気持ちよくなり、自己陶酔する、そんな価値評価の仕方です。ニーチェは「私は高貴だ、力強い」と書いていますが、要するに「私ってカッコイイ!」という感じ方のことですね。「よい(gut)/わるい(schlecht)」という表記は、このような貴族的価値評価法をあらわします。「よい」とは「カッコいい、楽しい」を意味し、「わるい」は「カッコわるい、つまらない」を意味します。

 これに対して「僧侶的価値評価法」のほうは「善(gut)/悪(böse)」と表記されます。そこでの善は自分が気持ちよいことではなく、あくまでも神からみて正しいことを指します。そして悪は神からみて悪いことになる。つまりこちらの価値観は、「神からみて正しいかどうか」によって決まるのです。
 
 そしてこの「善/悪」の価値観の背後にはルサンチマンが隠されている、とニーチェはいうのです。ユダヤ人は貧しさにあえぎつつ、権力と富をもつローマ人や王族を憎んだ。しかし現実において彼らに勝つことはできない。そこで彼らは復讐のために神をつくり出した。「あいつらにはかなわない。私たちは苦しめられている。でも、天国に行けるのは私たち貧しい者のほうだ。富者や権力者は悪人であり地獄に落ちるのだから」と。神を用いることで現実の強弱を反転させ「心理的な復讐」を果たすことができる。自分が気持ちよくなって自己肯定するのではなく、強い他者を否定することで自己肯定する。これこそが「僧侶的価値評価法」の本質なのです。

 「僧侶的民族」であるユダヤ人は「よい/わるい」という貴族的価値評価法をすべてひっくり返し、「みじめな者のみが良い者である。貧しい者、力のない者、いやしい者のみが良い者である」とした、とニーチェはいいます。これが「道徳における奴隷一揆」の意味です。『新約聖書』の「マタイ伝」のなかに「貧しき者は幸いである。天国は彼らのためにある」「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」という言葉がありますが、これらの箇所の背後にニーチェはルサンチマンを読み取っているのです。
 
 これらの言葉は、貧しい者を勇気づけてきたものであり、キリスト教のとても大事な教えだとされてきましたが、ニーチェはこれをしょせん弱者のルサンチマンだと一蹴します。しかも、このルサンチマンからつくられた価値評価法の結果、ひどくまずいことが起こったといいます。それは何か。神様に従う人間は、ひたすら「善いこと」しかしない。正しい掟が決まっているから創造的な試行や実験はすべて禁止され、心清く生きることばかりがめざされる。そこから生まれるのは「無難な善人」でしかない。もともと人間には貴族的なところがあって、自発的に新しいことを試しさまざまなものをつくり出そうとする創造性があるはずなのに、キリスト教はそうした創造性をことごとく抑圧してしまう、というのです。
 
 とはいいながら、ニーチェはキリスト教を全否定しているわけではありません。ある断片のなかで彼はこういっています。「キリスト教的な道徳仮説はどんな利益をもたらしたか。(一)それは生成と消滅の流れのうちにある人間の卑小さや偶然性に対して、人間に絶対的価値を与えた。(中略)(四)それは人間が自分を人間として軽蔑しないように(中略)取りはからった。それは一つの保存手段だったのである」(『力への意志』§4)。
 
 つまり生にいかなる苦悩があっても、その苦悩に耐えて心清く生きた人は天国で幸せになれるというキリスト教には、人間の生きる意欲を守っていた面もたしかにあった、というのです。でも、もうこのままではいられない、とニーチェは考えていた。キリスト教というものは、いわば弱く小さい子たちを守ってくれた安全なシェルターのようなものだった。しかし、もうそのシェルターはあちこち破れてきている(神への信仰に疑いが出てきている)。だとすれば、もう人々はシェルターの外に出て、それぞれが生きる実験をし、より創造的になって高め合う努力をしていかなければならない。──ニーチェはそう考えていたと思います。

 「善/悪」の僧侶的価値ではなく、「カッコいい、おもしろい、わくわくする」という貴族的価値のほうへ。人は固定的な善や真理を守って生きるのではなく、みずから創造性を発揮していかねばならない。その意味で、ニーチェは「まさにいまこそ価値は転換されねばならない」と考えていました。

 『ツァラトゥストラ』の核心は、キリスト教の正体を暴いて、新たな人類の価値と方向を示そうという点にありました。しかし、どうやったら人は創造的になれるのでしょうか。苦悩とルサンチマンに負けない生き方は、どうやって可能なのでしょうか。『ツァラトゥストラ』の中身をより深く探っていくことにしましょう。
本書の「はじめに」と「第1章」はいかがでしたでしょうか。
以降の読み解きは、ぜひ書籍・電子書籍でご覧ください!


第6回はこちら
■『NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ『ツァラトゥストラ』』(西 研 著)より抜粋
■脚注、図版、写真は権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
西 研(にし・けん)
1957年、鹿児島県生まれ。哲学者・東京医科大学教授。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。京都精華大学助教授、和光大学教授を経て現職。主な著書に『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)、『哲学のモノサシ』(NHK出版)、『実存からの冒険』『哲学的思考』(ちくま学芸文庫)、『集中講義 これが哲学!──いまを生き抜く思考のレッスン』(河出文庫)など、共著に『よみがえれ、哲学』(NHKブックス)、『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社選書メチエ)、『超解読! はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(講談社現代新書)などがある。

※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
大人の学び直しにおすすめ! NHK「100分de名著」ブックス&「学びのきほん」シリーズの紹介はこちら *本書における『ツァラトゥストラ』はじめ、ニーチェの著作からの引用部分については、原則として著者の訳によります。例外箇所については、適宜その部分に翻訳者名を記載しました。
  
*本書中の引用部分に今日では差別的な表現とされるような語が用いられている箇所がありますが、古典としての歴史的、また文学的な価値という点から、原文に沿った翻訳を心がけた結果であることをご了解ください。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2011年4月と8月に放送された「ニーチェ ツァラトゥストラ」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たに第4回放送の対談、年譜などを収載したものです。
NHKテキストからの試し読み記事やお役立ち情報をお知らせ!NHKテキスト公式LINEの友だち追加はこちら!
関連記事