哲学者が示してきた「しあわせの条件」とは?【学びのきほん】

2023/08/29

人が元気に喜びをもって生きていく、そのために必要なことは何か

『学びのきほん しあわせの哲学』では、ソクラテスの「対話」、ハイデガーの「可能性」、ニーチェの「永遠回帰」など、哲学者が時代ごとに考え抜いた思想の「エッセンス」から、人がしあわせに生きるために必要な考え方を提示します。哲学という営みが誕生して2500年、哲学者はどのように「しあわせ」を見出してきたのでしょうか。

今回は本書より、著者の西研さんによる「哲学」へのいざないを公開します。

しあわせの条件

 現代を生きる私たちは、いま、極端に「個別化」しています。

 ネット環境やコンビニの発達などによって、私たちは他人と直接に関わらずに生きていける社会的条件を獲得しました。これは人類史上初のことです。それは言い換えると、自分の関心があるものだけで自分の世界を構築できるようになった、ということでもあります。

 それはよいことのようにも思えますが、同時に地域をはじめとしたコミュニティの弱体化が進み、他者とのネットワークを育てることのできなかった人は、まさに「一人で」生きていかざるを得ない状況になっています。

 いま、自分が困っていると声をあげることのできる場所はない、と感じている人は多いのではないでしょうか。お互いの存在を、いろいろな苦しみを含めて認めあい、これからの生き方を一緒に考える場がどこにも見当たらない、と。

 しかしまた、ズームなどネットを用いて、オンラインでそのような場をつくろうとする動きも、人びとのなかに出てきています。個別化が極度に進展する一方で、手をつなごうとする動きも出てきているのです。

 本書では、そんな状況を私たちが生きていくにあたり、「どんな条件があれば、人はしあわせな人生を生きていけるのか」ということを、哲学的な人間論の立場から考えてみたいと思います。

 哲学の世界では、「人間とはどのような存在か」ということについて、さまざまな議論が積み重ねられてきました。そのなかには、誰もが納得できるような堅固な考え方が含まれています。そのエッセンスを私なりにみなさんに紹介しながら、一緒に「人間の生としあわせ」についてあらためて考えることができれば、と思っています。

 ところで「しあわせ」という言葉について、人によって思い浮かべるイメージはさまざまでしょう。ですから、ここではさしあたって「喜び」という言葉を用いて、次のように「問い」を設定してみたいと思います。

人が元気に喜びをもって生きていく、そのために必要な条件は何か?

 ここで言う「元気」とは、「体調がよく健康である」ということではありません。体調が悪くても、つらい状況にあっても、「前向きの元気な気持ちをもって、喜びとともに生きていく」ということができるかもしれないからです。

 本書では、この問いについて、すぐれた哲学者たちの思想をヒントに、考察を進めていきます。そして、最後の章で、「しあわせ」とはどういう意味をもつものかを、あらためて考えてみたいと思います。

 ここでは本編に入る前に、個人の生き方に大きな影響を及ぼしている時代的な背景について、みなさんと共有しておきたいと思います。

目標を見失った時代

 第二次世界大戦後の日本は、「二度と戦争を起こさない平和で民主的な国家をつくる」ことを大きな理念としました。それと同時に、経済も含めて「欧米に追いつけ追い越せ」という目標を掲げ、国民が一体となって高度経済成長を成し遂げました。

 当時は、国としてのわかりやすい目標や未来への可能性があり、みんなが共有できる物語が確かにありました。多くの人が同じ方向を向いて必死に働くことで、国を復興してきました。個人としても、豊かで文化的な生活を求めて、多くの人が田舎を出て都会に行き、しあわせな生活をつくろうとしてきました。

 その結果、一九八〇年代になると経済的には欧米に追いつき、格差の少ない平和で豊かな社会が訪れます。

 そして「消費社会」と呼ばれるように、おしゃれで素敵な居住空間のなかで、おいしいものを味わうことが、「喜び」であり「しあわせ」であるという見方が広がりました。それは、糸井重里(一九四八~)による当時の広告の「おいしい生活」というキャッチコピーに象徴的に表れています。

 田舎を窮屈と感じ、都会に出てきて、誰からも邪魔されない自分だけの空間と時間をもつ。たとえば自分の書斎やリスニング・ルームのなかで、本や音楽を味わうぜいたくな時間を過ごすことが、六〇年代から七〇年代にかけて、人びとが求めてきたものでした。これを実現してしまったのが、八〇年代と言えるかもしれません。

 しかしそれは「どこをめがけて生きるのか」を見失うことでもありました。国として社会として、どういうあり方をめざせばいいのか。個人としてどう生きるのが「よい」生き方なのか。そのことがわからなくなったまま、バブル経済は崩壊し、経済格差はどんどん広がり、そして情報化の進展は人びとの「個別化」に拍車をかけていきました。

 この数十年の間で、人びとの気持ちに変化が生まれてきたと私には思えます。ぜいたく、おいしいもの、ブランド品に囲まれた生活。そういう消費生活に必ずしも魅力を感じなくなっている。それよりも、ボランティアをしたり、町おこしに関わったり、いろいろな支援の活動に参加してみたり、というように、人びとと直接に触れあって、何か役立つことをして喜んでもらいたい、という気持ちが強くなっているように感じます。

 美しいものやおいしいものを味わうことは人にとって大切な喜びですが、「他の人が喜んでくれることを喜ぶ」、ということも、人の本性のなかに含まれているのです。

 そして、「いま・ここ」を味わうだけでなく、「これからの世代・社会」をつくっていくことも大切だ、という感覚が生まれてきていると感じます。

 しかしまだ、明確な方向が見えてきたとは言えません。そんな現在だからこそ、あらためて「人間とはどんな存在であり、何を求め喜びとするのか」を考えてみることには、大きな意味があると思います。

哲学のはじまり

 哲学は古くから、自分の人生をよいものにしたいという思いのもとに、「よいこととは何か」について考えてきました。そのさいの「よい」は、道徳的な善だけではありません。楽しいこと、愉快なことも含んでいます。

「哲学の祖」として知られるソクラテス(前四六九頃~前三九九)もその一人でした。

 彼の生きていた、古代ギリシアのアテナイというポリス(都市国家)にはアゴラという広場があり、たくさんの人びとが集まって体操をしたり対話をしたりして楽しんでいました。

 ソクラテスが散歩をしていると、若者がソクラテスを呼びとめ、このような問いを投げかけます。

「本当の友情ってなんですか?」
「正義ってどういうことだと思いますか?」

 すると、ソクラテスは、そんな若者たちにこう問い返します。

「君たちはどう思うの?」「どうしてそう思うの?」

 ソクラテスは、そのように問いかけながら、友情、正義、勇気、美のような「よいこと」について、対話を通して確かめようとしました。

 一緒に語りあいながら、「これが大事なことだ」「こんなふうに生きていくのが本当の生き方だ」ということを考える。つまり、彼らは、「よく生きる」ために対話をしていたのです。それが哲学のはじまりでした。

 その後の哲学者たちも、「人は何を求めて生きているのか」「どこに向かうと元気になれるのか」について考え、その答えを模索してきました。そのような議論が積み上がっていくなかで、優れた人間論ができあがってきたのです。

 そのなかでも、私が本書で取り上げたいのは、次のような哲学者たちです。

 まず、一九世紀初頭のヘーゲル(一七七〇~一八三一)です。私は、このヘーゲルはそれまでの哲学者が積み上げてきた議論を総括し、さらに深いところまでつきつめた人物だと考えています。彼は、人が「自由な生き方を求める」ということ、そして同時に「他者からの承認を求める」ということ、この「自由と承認」という視点から、人と社会とがどうありうるかを考えました。

 ヘーゲルから少し時代が下った一九世紀末には、ニーチェ(一八四四~一九〇〇)が登場します。ニーチェは後半生でかなり不幸な人生を送ったこともあって、「喜びをもって生きるためには、どうしたらよいか」について、とても真剣に考えています。

 二〇世紀になると、ハイデガー(一八八九~一九七六)が登場します。彼は二〇世紀最大の哲学者の一人とも言われますが、人は「いま・ここ」だけを生きるのではなく、「これからどうやって生きるのか」を考えながら生きる存在であることを主張しました。

 また、これらヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーの三者を意識しながら、優れた人間論をつくりあげた人として、バタイユ(一八九七~一九六二)がいます。バタイユは、二〇世紀半ばのフランスの哲学者で、「死」や「エロティシズム」などといった概念を通して、人間のあり方について考えました。

 本書では、これらの哲学者たちの人間論をもとに、「そもそも人は何を求めて生きる存在なのか」を考えます。そしてそのうえで「人が元気に喜びをもって生きていくために必要な条件は何か」、一言で言えば「しあわせの条件」の問いに答えを出してみたいと思います。

 みなさんはぜひ、自分のこれまでの経験を振り返りながら、私と対話するように本書を読んでみてください。そして、あなたにとっての「しあわせの条件」を考えていただければと思います。


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著者紹介

西 研(にし・けん)
東京医科大学哲学教室教授。著書に『哲学は対話する』(筑摩選書)『実存からの冒険』『哲学的思考』(ちくま学芸文庫)『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)『NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ』『NHK「100分de名著」ブックス ルソー エミール』(NHK出版)など多数。
※刊行時の情報です

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◆『NHK出版 学びのきほん しあわせの哲学』「はじめに」より抜粋
◆ルビなどは割愛しています

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