創刊10周年を迎えた「100分de名著ブックス」シリーズは、累計50万部を突破しました。「さらに多くの方に名著の魅力に触れてほしい!」との思いから、毎週月曜日、既刊の名著読み解きを1章まるごと公開します!
今回の名著は福沢諭吉の「学問のすゝめ」。「100分de名著ブックス 福沢諭吉『学問のすゝめ』」の「はじめに」と「第1章」より、齋藤 孝先生による読み解きをご紹介します(第3回/全6回)
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※第5~6回は6月13日に公開予定です。
第1章 学問で人生を切りひらけ (その2)
門閥制度は親の敵
では、ここで、福沢諭吉とは何者なのか、簡単にプロフィールを紹介しましょう。
福沢諭吉は一八三五年一月(天保五年十二月)、大坂堂島の中津藩蔵屋敷に生まれました。父親は中津藩(現在の福岡県南部から大分県北部)の下級藩士で、福沢百助(ひやくすけ)といいます。百助は好学の士で、たいへん知的な人間だったのですが、当時は身分制度がきびしかったので出世もままならず、たいしてよい目も見られないまま、諭吉が満一歳のときに病死してしまいました。
百助は諭吉が誕生したとき、将来が限られてしまうのは不憫(ふびん)だから、努力すればえらくもなれるお坊さんにしようかと迷ったそうです。そのくらい、当時は個人が将来の夢を自由に描きにくい時代でした。諭吉は『福翁(ふくおう)自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と言っています。封建時代というのは、実力があって意欲もある者にとっては、まことにつらい時代だったのです。
そんな福沢諭吉に運の芽のようなものが見えてきました。父の死後、福沢家は貧乏のどん底となり、しかも彼は次男だったので、そのままいけば不遇の中で朽ち果てた可能性もあったのですが、時代の風が変わりはじめたのです。
きっかけは、「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)」といわれた一八五三年(嘉永六年)の黒船の来航です。中津藩は十万石クラスの小藩ですが、やはり備えは必要です。福沢は下級のみそっかすでしたが、頭の良さを買われて長崎の出島で砲術の勉強をすることになり、オランダ語を習得します。
やがて大坂の蘭方医、緒方洪庵(おがたこうあん)の私塾「適塾(てきじゆく)」に入塾して、さらに蘭学の知識を吸収。塾頭になるなど優秀な成績を修めました。そのうちに、中津藩の江戸築地鉄砲洲(てつぽうず)の中屋敷で藩士のための蘭学塾が開かれることになり、福沢はその教師として呼ばれます。これが「慶應義塾」の祖形です。一八五八年(安政五年)、二十三歳のときでした。
その翌年、たまたま横浜の外国人居留地を訪れたとき、オランダ語はもはや時代遅れで、すでにグローバル・スタンダードは英語であることを知り、これまでオランダ語に費やした努力は泡沫(うたかた)となって消えたのかと一時はショックを受けましたが、そこは合理的な切り替えの早い福沢諭吉です。大慌てで英語の勉強を始めて巻き返しました。当時、二か国語を操れる人間などはそう多くはいませんでしたから、やがて現在の外務省に当たる幕府の外国方というところに召され、翻訳の仕事で働くようになります。
そのころの世の中は開国か攘夷(じようい)かで大揉(も)めに揉め、血気にはやった尊王攘夷派の志士たちが外国人を襲撃するなどの暴挙を繰り返していました。が、先進的な知見を持っていた福沢は、とんでもない愚行として、まともにうけあいませんでした。このころのことも、『学問のすゝめ』の中に書いてあります。
嘉永(かえい)年中アメリカ人渡来せしより、外国交易の事始まり、今日のありさまに及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましくいひし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺にいふ井の底の蛙にて、その議論取るに足らず。日本とても西洋諸国とても、同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合ひ相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互ひに相教へ互ひに相学び、恥づることもなく誇ることもなく、互ひに便利を達し、互ひにその幸ひを祈り、天理人道に従つて互ひの交はりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては、日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。(初編)
嘉永年間(一八四八―五四)にアメリカからペリーが来て外国との交わりがはじまった。そして今日に至ったわけだ。なお、開港した後でも、「鎖国」や「攘夷」などとうるさく言っていた者もいるが、たいへん狭いものの見方であり、ことわざに言う「井の中の蛙」のようなものだ。こういう議論はとるにたらない。日本といっても、西洋諸国といっても、同じ天地の間にあり、同じ太陽に照らされ、同じ月を眺めて、海を共にし、空気を共にし、人情が同じように通い合う人間同士である。こちらで余っているものは向こうに渡し、向こうで余っているものはこちらにもらう。お互いに教え学びあい、恥じることもいばることもない。お互いに便利がいいようにし、お互いの幸福を祈る。「天理人道(天が定めた自由平等の原理)」にしたがって交わり、合理性があるならばアフリカの黒人奴隷の意見もきちんと聞き、道理のためにはイギリスやアメリカの軍艦を恐れることもない。国がはずかしめられるときには、日本国中のみなが命を投げ出しても国の威厳を保とうとする。これが一国の自由独立ということなのだ
鎖国攘夷を叫ぶ者などは「井の底の蛙」に過ぎず、世界中どこでも人間は同じで、同じ権利を持って生きていると言っています。だから、たがいに尊重しあい、文化を理解しあい、親交を持てばよいではないか――と。当時としては珍しい開けた考え方の持ち主であったことがわかります。
こうした彼の開明的な思想を推進するきっかけとなったのは、三度にわたる洋行でした。初度は一八六〇年(万延元年)、幕府の遣米使節団に加わってアメリカへ、二度目は一八六二年(文久二年)、遣欧使節団の翻訳掛としてフランス、イギリス、オランダなどヨーロッパの国々を歴訪しました。そして五年後の一八六七年(慶応三年)にも、再度アメリカに渡りました。好奇心が強く物怖(ものお)じしない福沢は、見るもの聞くものすべてに興味を持ち、自分の肥やしとしてぐんぐん吸収しました。
欧米の進んだ技術や産業は、当然福沢を魅了しましたが、なによりも彼をとりこにしたのは、西洋の人びとのものの考え方でした。家父長制度や男尊女卑、封建的な身分制といった古い因習から解き放たれた合理的な精神です。どんなに才能があってもやる気があっても、生まれ落ちた境遇からは抜け出せぬという日本の状況に長く涙をのんできた福沢だけに、それは夢のように希望に満ちたものに感じられました。そして、その思想を取り入れることが日本を生まれ変わらせる突破口になる、と考えたのです。
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■『NHK「100分de名著」ブックス 福沢諭吉『学問のすゝめ』(齋藤 孝著)より抜粋
■脚注、図版、写真は権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
齋藤 孝(さいとう・たかし)
1960年、静岡県生まれ。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒業後、同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション技法。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」の総合指導を務めるなど、子どもの教育に力を入れている。著書に『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス・新潮学芸賞受賞)、『声に出して読みたい日本語』(草思社・毎日出版文化賞特別賞受賞)、『読書力』『コミュニケーション力』(ともに岩波新書)、『座右の諭吉』(光文社新書)、訳書に『現代語訳 学問のすすめ』『現代語訳 論語』(ともにちくま新書)ほか多数ある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
大人の学び直しにおすすめ! NHK「100分de名著」ブックス&「学びのきほん」シリーズの紹介はこちら
*本書は、「NHK100分de名著」において、2011年7月に放送された「福沢諭吉 学問のすゝめ」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たに第4回放送の対談と読書案内、年譜などを収載したものです。
*本書における本文中『学問のすゝめ』の引用部分は、福沢諭吉著・伊藤正雄校注『学問のすゝめ』講談社学術文庫に、文中の現代語訳は福澤諭吉著・齋藤孝訳『現代語訳 学問のすすめ』ちくま新書によりました。
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