創刊10周年を迎えた「100分de名著ブックス」シリーズは、累計50万部を突破しました。「さらに多くの方に名著の魅力に触れてほしい!」との思いから、毎週月曜日、既刊の名著読み解きを1章まるごと公開します! 今回の名著はアランの『幸福論』。「100分de名著ブックス アラン『幸福論』」の「はじめに」と「第1章」より、合田正人先生による読み解きをご紹介します(第2回/全5回)

第1回はこちら/第3回はこちら/第4回はこちら/第5回はこちら

※第4~5回は6月27日に公開予定です。
第1章 人は誰でも幸福になれる (その1) 混迷の時代に生きた哲学者  はじめに、アランの生涯とその時代について簡単に見ていきましょう。

 アラン、本名エミール・シャルチエは、一八六八年フランス北西部のノルマンディー地方に生まれ、一九五一年に八十三歳で没します。この生没年だけ見ていただいてもみなさんお分かりのように、ちょうど世界が大きく転換していった時代ですね。第二次産業革命で人々のライフスタイルが大きく変化するとともに、帝国主義の延長線上に二度の大きな戦争がありました。一方で、ロシア革命をはじめとする革命の機運が高まった時代でもあり、一九二九年にはアメリカのウォール街から広がった金融危機が世界大恐慌へと発展するなど、目まぐるしく変化する社会に人々の不安が蔓延(まんえん)していた時期でした。

 もう少しミクロな視点で見てみましょう。十九世紀末のフランスは、第二次産業革命に恩恵を受けるとともに、帝国主義によって獲得した広大な植民地から吸い上げる莫大な収益によって大きな繁栄を築いた時代です。人々は富を享受しましたが、それが平等に分配されたかというと、そうではありません。フランス革命以後、「国民はみな平等だ」と謳われはしたものの、先祖伝来の土地を所有する貴族はまだまだ残っていたし、いわゆる新興ブルジョワジーと呼ばれる大資本家も出てきました。一方で、貧者は相変わらず厳しい労働にさらされていて、女性、とくに働く女性は軽蔑の対象でした。そこには厳然とした差別や格差が残っていたのです。当時フランスで活躍した作家のエミール・ゾラや画家のエドゥアール・マネなどは、その作品のなかでこの時代を鮮やかに切り取っています。その後二十世紀に突入すると、サラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発し、政治的不穏が大きく渦巻いていきます。アランは、そういう時代の真っ只中を生きた哲学者でした。
 彼の父、エチエンヌは腕利きの獣医でした。政治的には共和派で反体制的、しかし何よりも大変な読書家であったようです。その父親から、アランは非常に大きな影響を受けます。理系に才能を発揮するとともに、経験知の重要さと批判精神を受け継ぎました。地位や名誉といった社会的名声を生涯軽蔑したのも、父の態度に感化されたものだと言われています。母ジュリエットのことはあまり語られていませんが、カフェを切り盛りする身体の丈夫な人であったようで、アランも頑強な身体をもっていました。

 野山を駆け回る、ごく普通の少年だったアランは、六歳になるとカトリック系のとても規律の厳しい学校に入れられました。そこでは、悪魔や地獄を恐れる感受性ゆえに真面目に信仰していたようですが、その信仰心はしだいに失われていきます。「宗教は恐怖にすぎぬとは、あえて言うまい。けれどもやはり、宗教心が恐怖心といっしょに私から去ってしまったことはたしかである」(『アラン著作集10』「わが思索のあと」田島節夫訳、白水社)と言っています。冒険譚(たん)に親しみ、空想を好んだ少年は、勉強には興味を示しませんでしたが成績はよかったようです。

 国立高等中学校でも優秀な生徒で、どの科目もよくできたアランでしたが、前述の通り読書家だった父親の影響で、とくに理系に才能を見せました。「私に天文学の趣味をあたえてくれたのも、やはり父であったかと思う。彼はなんでも読んだ人で、およそ宗教的なところはなかったのに聖人伝までも読んでいた」(同前)とアランは後に述べています。教師らは理系の難関、高等理工科学校に行くことを勧めますが、受験に関心がなく、興味を持っていた幾何学(きかがく)以外の勉強をしなかったアランは受験に失敗。パリのミシュレ校に進学することになりました。

 そこで十七歳年上のジュール・ラニョーという教師に出会い、哲学に目覚めます。とくにプラトンとスピノザについて学び、哲学と文学の思想の世界を縦横無尽に旅するようになります。一方で、パリの華やかな演劇や音楽に魅了され、劇場に通う青春の日々を過ごしました。アランはラニョーを「自分が出会った唯一の偉人」とたたえ、一八九四年にラニョーが亡くなると、のちに恩師の作品をまとめて『ジュール・ラニョーの遺稿』と題して、その功績を世に広めようとしました。

 二十四歳で高等師範学校を卒業し、哲学の先生になったアランは、その後、フランス各地の高校を転々とします。一八九四年にドレフュス大尉が冤罪(えんざい)で逮捕されるという事件が起きた際には、ドレフュス擁護派の論客として活躍。これによってアランの名は世に知られることになったのです。二十六歳のときでした。

 批判精神豊かな青年は、しばしば政治活動に参加しました。一九〇〇年(三十二歳)からは、「ロリアン新聞」にアランというペンネームで寄稿するようになり、「民衆大学」という、知識人が民衆のために勉強会を行う啓蒙活動に参加し、科学などを教え、講演や論争もしました。一九三〇年代には「反ファシスト知的監視委員会」を組織しています。その間も変わらずに一高校教師であることを貫き、スタンダールの格言「天才であろうがなかろうが、毎日書くこと」を胸に、旺盛な執筆活動を続けました。

 一九〇九年(四十一歳)、パリの名門アンリ四世校に移り、引退するまでそこで教鞭(きようべん)を執りました。「永遠の高校教師」と呼ばれるように、アランは生涯大学の先生にはなりませんでした。逆に、パリ大学哲学科の学生たちがアンリ四世校の彼の講義に通っていたといいます。
 余談ですが、一九二五年(五十七歳)にアランはアンリ四世校で、ある女子生徒と出会います。後に二十世紀を代表する思想家となったシモーヌ・ヴェイユです。この年には『幸福論』の初版(プロポの数は六十編)が出版されました。彼女はポケットにいつもアランの本を入れていました。ポケットに一冊、『幸福論』はやはりそんな本なんですね。

 六十五歳でアンリ四世校を退職した後も執筆を続けたアランは、一九五一年、八十三歳で亡くなりました。生涯独身を貫いていましたが、晩年の七十七歳で、かつての恋人と再会して「結婚」。ただ、プライベートに関しては多くを語らない人でしたから、突然結婚したその理由についての詳細は分かっていません。



*( )内の数字は『幸福論』の各プロポの番号を指します。また、本書における『幸福論』の引用部分は著者の訳によります。
第1回はこちら
第3回はこちら
■『「100分de名著ブックス アラン『幸福論』』(合田正人著)より抜粋

■脚注、図版、写真は権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
合田正人(ごうだ・まさと)

1957年、香川県に生まれる。一橋大学社会学部卒業。パリ第8大学哲学科留学。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。琉球大学講師、東京都立大学人文学部助教授を経て、明治大学文学部教授。哲学研究者。専攻は19、20世紀フランス・ドイツ思想、近代ユダヤ思想史。「生理学」「心理学」「精神分析」「社会学」など19世紀を通じて醸成された人間科学の諸相を分析し、そこに孕まれた諸問題の現代性を考察している。加えて17世紀以降のユダヤ人問題とも取り組んでいる。著書に『ジャンケレヴィッチ』(みすず書房)、『レヴィナスを読む〈異常な日常〉の思想』(ちくま学芸文庫)、『サルトル「むかつき」ニートという冒険』(みすず書房)、『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書)などがある。

※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
大人の学び直しにおすすめ! NHK「100分de名著」ブックス&「学びのきほん」シリーズの紹介はこちら *本書は、「NHK100分de名著」において、2011年11月に放送された「アラン 幸福論」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たに第4回放送の対談と読書案内、年譜などを収載したものです。

NHKテキストからの試し読み記事やお役立ち情報をお知らせ!NHKテキスト公式LINEの友だち追加はこちら!
関連記事