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アランは人間の身体性をとても大事にした哲学者でした。その背後には、彼が十七世紀の哲学者デカルトに強い影響を受けていたことがあります。私たちは怒ると顔が赤くなったり、体が震えたりしますね。悲しいと涙が出るし、緊張すると体がこわばってしまいます。このように、私たちの心はいつも身体的現象と結びついています。デカルトは、いったんその心と体を分けて、心と体の相互関係を考えた哲学者でした。アランもそれにしたがって、人間の心と体の結びつきを考えようとしたのです。
たとえば自分が、不機嫌な状態にあるとしましょう。自分のこの状態は原因不明だ。なにか精神的な原因があるのではないか。あるいは、他人との関係に原因があるのでは──などと考えてしまいます。でもほとんどの場合は、なぜか泣きやまない赤ん坊の体にピンが刺さっていたように、実は、自分でも気づかない自分の体のどこかに原因があるのです。『幸福論』で、アランは次のようなたとえを用いて説明しています。
今「体操」と出てきましたが、アランの言う「体操」は、新体操やラジオ体操のような運動というよりも、たとえばちょっとした「しぐさ」であったり「微笑み」であったり、内臓の深呼吸としての「あくび」であったりします。しかし、これは単なる休息ではありません。たとえば「あくび」なら、おなかに深々と空気を送り込むことで、ひとつのことに執着している心に隙(ひま)を与えてあげることができます。あるいは、微笑むことでイライラしている気持ちを静めることが可能になります(笑いながら怒るのは難しいですからね)。
身体性というのは、意外と私たちの気分を反映しているものです。「退屈している人は、その退屈しやすい姿勢や話し方をし、意気消沈している人は体からできる限り力を抜いているものだ」とアランは言います。そういった気分に逆らうために、適当な運動を体に与えてやることが必要なのです。筋肉が体操によって鍛えられ、やわらかくなるにしたがって、心もまた自分の欲するとおりに動くようになる、と彼は考えました。そして、「笑い」、とくに「微笑み」の重要性について何度も指摘しています。
西洋哲学というと、なにやら観念的な理屈ばかりといった印象をお持ちの方も多いと思います。でも、これまで見てきたように、アランについて言うならば、彼の哲学はかなり実践的です。実際の生活で経験したことを分析する在野の哲学者でしたから、失敗をあれこれ考えて眠れないときは体操で心身をほぐそう、あくびをして眠いふりをするのも効果があるよ、と非常に分かりやすい身体論で語りかけてくるのです。これが『幸福論』の一つの特徴と言えます。
先に述べたとおり、アランの身体論がデカルトの影響を受けているのはもちろんですが、アランはデカルトの考え方をそっくりそのまま継承したわけではありません。デカルトの考えの一つの特徴は、心と体の間に相反的な関係を設定したことにあります。分かりやすく言えば、精神的に優れた人というのはあまり肉体的能力が高くないとか、肉体的に優れている人は精神的に未熟だなどといった具合に、心と体を二項対立として考えていた傾向がありました。
しかしアランは、体が正しい方向に動き、能動的・活動的になっていくと、精神のほうもプラスのほうに傾いて、能動的・活動的になっていくと考えたのです。ですからアランは、必ずしも心と体が反対の動きをしているわけではなく、お互いが相関関係にあると主張しているのです。
次章では、心と体の「心」の部分に焦点を絞って、私たちが幸福になるために克服しなければならないものとは何かについて、見ていきたいと思います。
*( )内の数字は『幸福論』の各プロポの番号を指します。また、本書における『幸福論』の引用部分は著者の訳によります。
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1957年、香川県に生まれる。一橋大学社会学部卒業。パリ第8大学哲学科留学。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。琉球大学講師、東京都立大学人文学部助教授を経て、明治大学文学部教授。哲学研究者。専攻は19、20世紀フランス・ドイツ思想、近代ユダヤ思想史。「生理学」「心理学」「精神分析」「社会学」など19世紀を通じて醸成された人間科学の諸相を分析し、そこに孕まれた諸問題の現代性を考察している。加えて17世紀以降のユダヤ人問題とも取り組んでいる。著書に『ジャンケレヴィッチ』(みすず書房)、『レヴィナスを読む〈異常な日常〉の思想』(ちくま学芸文庫)、『サルトル「むかつき」ニートという冒険』(みすず書房)、『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書)などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。