身の回りに散りばめられた学びをつかまえる、フォトグラファー・安彦幸枝さんによる写真とエッセイ。
 母は油絵を描いている。

 はじめた頃は、近くのカルチャーセンターに通いデッサンを習っていた。そのうち自宅に大きなイーゼルが持ち込まれ、絵の道具は少しずつ増えていき、いつのまにか、かつての私の寝室は母のアトリエになっていた。

 モチーフはたいてい、人物や花、猫。絵画展にも出品するようになり、年に数度、新作を見るために家族で会場に集まるのが恒例だ。一年のあいだに、100号サイズを二、三点、小さいものでも四、五点ほどを描き上げる。締め切りが近づくと、今度こそ間に合わないかも!と慌てだすものの、いつもなんとかなっている。父はたまに冗談で、母のことをセンセイと呼ぶ。家族から見ても、ずいぶん上手になったと思う。母の人生にとって絵は、いつのまにか欠かせないものになっていた。

モデルは18歳のハナ吉。  
 アトリエの壁には、いろんなものが貼られている。裸婦のエスキースや草花の拡大写真。ファッション誌のモデルの切り抜きや、孫からの手紙。西日が差し込むこの部屋で、ラジオや音楽を聴きながら筆を動かしている時間は、何よりも幸せだという。母は編み物や刺繍などの根を詰める作業が得意で、それはわたしの知らない感覚だ。集中力はなく習い事はどれも続かなかった。どちらかといえば瞬発力はあるから、写真は向いていたのかもしれない。

 
 母は絵の仲間たちと、イタリアへ美術を巡る旅をしたことがあった。当時ひとり暮らしを始めたばかりの部屋に、フィレンツェからエアメイルが届いた。有名な受胎告知の絵だった。旅先であっても私の健康や幸せを願う言葉とともに、「大好きな絵だから、いつかあなたにも見てほしい」と結んであった。そのハガキは何度かの引っ越しを経たいまも、壁に貼ってある。

アルノ川に架かるポンテ・ヴェッキオは、イタリア語で「古い橋」。  
 数年前、仕事でフィレンツェへ行く機会があった。かつて母が送ってくれたフラ・アンジェリコの絵は、サン・マルコ修道院に収蔵されている。少しの空き時間に出かけたところ、観光客の長蛇の列に断念した。母が来た頃はどうだっただろう。絵を見るための旅だったから、きっと辛抱強く並んだのだろう。フィレンツェは街全体が美術館のようで、眼に映るものすべてが嬉しかったと思う。いまよりずっと若かった母が、同じ石畳を歩いているのを想像した。

週末、フィレンツェの公園で開かれていたマーケットで。 安彦幸枝(あびこ・さちえ)|父のデザイン事務所でアシスタントを務めた後、写真家泊昭雄氏に師事。著書に『庭猫スンスンと家猫くまの日日』(小学館)、『どこへ行っても犬と猫』(KADOKAWA)ほか。NHK出版では『NHK趣味どきっ!』テキストなどで撮影多数。 ◆写真と文:安彦幸枝
◆編集:佐藤信輔
*初出:2021年12月24日 WEBサイト「学びの秘訣」
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