NHKテキスト「100分de名著」から、東京大学大学院教授・山本芳久(やまもと・よしひさ)さんによる『ニコマコス倫理学』読み解きの第1回「倫理学とは何か」の一節を、抜粋掲載します。
また『ニコマコス倫理学』は、現代において倫理学的問題を深く考察するさいには自ずと呼び出されてくる書物で、そういう意味でも原点と呼ぶべき重要性を帯びています。少なくとも、倫理学に関わる領域の研究をしたり、それに関心を持っていたりする人のなかで、『ニコマコス倫理学』をまったく読んだことがない人はほとんどいないでしょう。
アリストテレスの倫理学は「幸福論的倫理学」と呼ばれます。このあと詳しく解説しますが、ひと言で言うならば「幸福とは何か」「どうすればそれを実現できるか」を考える倫理学で、違った角度から「徳倫理学」とも言われます。「徳」はギリシア語で「アレテー」と言い、「卓越性」「力量」と訳されることもある言葉です。アリストテレスは、人は徳を身につけてこそはじめて幸福を実現できると考えました。そのため、彼の倫理学では、人間としての力量である徳を身につけることが核になってきます。
幸福というものは、アリストテレスが生きた紀元前四世紀だけでなく、いつの時代においても人々が望み、そうなりたいと願うものです。人生を生きていくなかで、何らかの力量を身につけたいという思いも同様でしょう。ですから『ニコマコス倫理学』は、現代でも非常に多くの人が関心を寄せる事柄についての基本的な理論が述べられている、「現役」の書物なのです。
これとしばしば対比されるのが「義務論的倫理学」です。これは読んで字のごとく、「〇〇すべきだ」という義務や、「〇〇してはいけない」という禁止に基づいて倫理を考える学問です。その代表的論者がイマヌエル・カントです。カントは、人間は義務に基づいた行為をする必要があり、道徳法則に対する尊敬が重要であると主張します。
「倫理」あるいは「倫理学」という言葉を聞くと、そこに「義務論的」という修飾語が付いていなくても、この義務論的倫理学を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。倫理学とは「〇〇すべきだ」ということを追究する学問である。そのようなイメージが強いと思うのですが、そうではない、倫理学のもう一つの潮流である幸福論的倫理学について、『ニコマコス倫理学』を読みながら学んでみることによって、人生を前向きに生きるための知恵を獲得しようというのがこのテキストの狙いです。
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。主な著書に『トマス・アクィナス――理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)、『キリスト教の核心をよむ』(NHK出版)、『危機の神学――「無関心というパンデミック」を超えて』(若松英
輔との共著、文春新書)など。
◆※本書における『ニコマコス倫理学』の引用は、朴一功訳の京都大学学術出版会版に拠ります。
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