逃げるか、とどまるか。極限状況で「自由」を求める人間の葛藤を描いた傑作・安部公房『砂の女』。
 画学生時代から安部作品を愛読してきた漫画家のヤマザキマリ氏が、「自由」や「希望」の多義性に注目しながら解説します。
 今回はNHKテキスト「100分de名著」から、漫画家・エッセイストのヤマザキマリさんによる『砂の女』読み解きの第1回「『定着』と『流動』のはざまで」の一節を、抜粋掲載します。
「定着」と「流動」のはざまで 「二つの自由」というテーマ  『砂の女』単行本の函(はこ)には、著者自身のこんな言葉が記されています。

 「鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂(ひさ)におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂搔きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか……色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐(な)めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい」

 内容紹介と共に、「二つの自由」というテーマが明示されています。つまり「壁」の外に移動する自由と、「壁」のなかに引きこもり定着して得る自由です。

 自由というものは、実はとても厄介で、人間にとって大変操作の難しいものです。よく「自由になりたい」と言いますが、いざ「自由になっていいよ」と言われて「壁」の外に放り出されたら、それはとても過酷なことでもあるのです。

 たとえば花輪和一さんの漫画『刑務所の中』に、刑期が終わって釈放を待つ受刑者が、これからシャバでどうやって生きていけばいいのだろうと、主人公に不安を打ち明けるシーンがあります。それに象徴されるように、人は何か決まった「壁」のなかで生きているほうがむしろ楽で、自由の大海原にひとりで放り出されると、どうしていいかわからなくなる。

 映画「パピヨン」のラストでは、スティーブ・マックイーン演じる囚人のパピヨンが、孤島の断崖からヤシの実の筏(いかだ)を海に放り投げ、そこへ飛び込んで筏にしがみつき、大海原を泳いで逃げていきます。でもその後は波に吞(の)まれるか、サメに食われて死んでしまうかもしれない。自由というのは、生きることの過酷さを暴き出し、人を簡単に吞み込んでしまう、凶暴な性質も持っているのです。

 そんな自由を、「砂」という物質に重ねて描いたのが『砂の女』です。自由は解放でもありますが、生きること自体の困難さと向き合わされることでもある。自由のもとでは、それぞれが自分自身の命をどう扱っていくかということが、厳しく問われ、試されます。

 命を保障される代わりに、「自分はいかに生きるべきか」などと考えなくてもいいのが群れという集団であり、人間を同化する社会の体制です。この小説の主人公である仁木順平はそれに反発し、もっと自分らしく生きたいと思っていますが、彼は自由に対するいささか安直な幻想を抱いています。

ヤマザキマリさんによる安部公房の似顔絵(100分de名著 阿部公房『砂の女』テキストより)©ヤマザキマリ  
 私は二か月と同じ場所には留まれない移動系体質の人間ですが、今回の新型コロナによるパンデミックでイタリアの家に戻れなくなり、日本国内の旅もなかなかできず、柱にでも括(くく)り付けられているような感覚に陥りました。物理的な移動は叶(かな)わなくとも、メンタルの部分で自分をあれこれ動かしていこうとしたのですが、日本に長くいると、しだいに私自身の価値観を実感できなくなって、狭い一方的な視野のなかに搦(から)めとられていく危機感を覚え、改めて自由の操作は難しいと感じています。

 この小説における砂は、「自由」の象徴でしょう。舞台となっている広大な砂丘は、ひとり地球とだけ向き合える場所のような、自由への憧憬を象徴するものとしても捉えられますが、一方で大海原と同じような凶暴性をはらんでいます。その凶暴さのなかで、自分をどのように生かしていくのか。つまりはそれが「自由」を考えることなのではないかと思います。
テキスト立ち読み! ヤマザキマリ
漫画家、文筆家

1967年生まれ。17歳のときに渡伊、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵と美術史を専攻。エジプト、シリア、ポルトガル、米国での活動を経て、現在はイタリアと日本に拠点を置く。1997年より漫画家として活動開始、2010年、『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。ほかの主な漫画作品に『スティーブ・ジョブズ』(講談社)、『プリニウス』(とり・みきとの共作、新潮社)など。エッ
セイに『ヴィオラ母さん── 私を育てた破天荒な母・リョウコ』(文藝春秋)、『国境のない生き方──私をつくった本と旅』(小学館新書)、『たちどまって考える』(中公新書ラクレ)など。2022年5月、安部公房の作品論『壁とともに生きる── わたしと「安部公房」』(NHK出版新書)を刊行。2015年度芸術選奨新人賞受賞、2017年、日本の漫画家として初めてイタリア共和国星勲章・コメンダトーレを受章。東京造形大学客員教授。
◆「NHK100分de名著 2022年6月 安部公房『砂の女』」より
◆※本書における『砂の女』からの引用は、新潮文庫版に拠ります。また、本文中には今日の人権意識に照らして不適切な表現を使用している箇所がありますが、作品が執筆された時代背景と、底本準拠の編集方針にかんがみ、底本通りの表記を採用しています。
■脚注、図版、写真、ルビなどは記事から割愛しております。詳しくはテキストをご覧ください。
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